【零二】
「雨宮……」

その名を口にしつつ、俺はシートの上に座っている彼女の
方へと歩み寄った。

【綾音】
「…………♪」

吹く風に身を任せるように目を閉じ、雨宮はメロディの
ようなものを小さく口ずさんでいた。

そして流れるような手つきで、膝の上の楽譜にペンを
走らせていく。

【零二】
「…………」

今まで自分の住んでいた世界とはあまりに異質すぎる
優雅さに、息をすることも忘れて見入ってしまう。

【綾音】
「……あら?」

俺のことに気がづいた雨宮が、穏やかな微笑を浮かべた。

【零二】
「よう、雨宮」

【綾音】
「こんにちは、零二くん」

その声までもが、まるでメロディを奏でているかのように
甘く涼やかに響く。

【零二】
「悪い。もしかしたら邪魔しちまったか?」

何だかバツの悪い気分がして、俺はわしわしと頭を掻き
上げ、謝罪の言葉を述べた。

【綾音】
「ふふふ、そんなことはないわよ?」

【綾音】
「そろそろ気分転換でもしようと思ってたところだから
 ちょうど良かったわ」

【綾音】
「いえ、むしろありがたいぐらいよ。だって、零二くんは
 これから私に付き合ってくれるのだから」

【零二】
「え……」

雨宮の誘いに思わず躊躇(ちゅうちょ) してしまう。

普段は里村達と一緒なので、こうやって二人きりで話す
のもこれが初めてであった。

【零二】
「おいおい、俺なんかで構わないのかよ?」

【綾音】
「さあ、あなた次第よ。それとも私では不服なのかしら?」

俺の問いに、蠱惑(こわく)的な笑みで問い返す雨宮。

【零二】
「はは、滅相も御座いません……」

何というか、こんなの最初から選択肢がないようなもので
選ぶ間もなく降参だった。

【零二】
「(とはいえ、雨宮相手に何を話したらいいのやら)」

生憎、俺は音楽の造詣(ぞうけい)も深くない。

それにもって、今までバイト漬けの生活を送ってきたので
学生らしい話題も、さして思い付かなかった。

【綾音】
「……意外、だったかしら?」

しかし俺が逡巡していると、おもむろに雨宮の方から
話し始めた。

【零二】
「ん、何がだ?」

【綾音】
「私がこんな風に野外で過ごしてることよ」

【零二】
「……ああ、そうだな。俺が持っていた雨宮のイメージ
 とは少し違ったかもな」

【綾音】
「でしょ? 私っていつも固い人間だと思われるから
 たぶん零二くんも、そう思うんじゃないかなってね」

少しだけ困ったように笑い、遠くの湖を見つめる。

【綾音】
「実は、よくこういうところにも作曲しに来たりする
 のよ、私」

【零二】
「こういう場所の方が、やっぱりインスピレーション
 とかが沸きやすかったりすんのか?」

【綾音】
「どうかしら? 私の場合、単純にここがお気に入りって
 だけなのかも……」

【綾音】
「緑と青に溢れた景色や風が運ぶ水辺の香り。ふとした
 拍子に揺れる波紋の美しさ―――」

【綾音】
「そういった自然の息吹が、子供の頃からずっと好き
 だったの……」

さながら胸の奥に秘めた大事な想いを語るかように
雨宮はそっと目を閉じた。

もしかしたら、この星見公園に大切な思い出があるの
かもしれない。